■創世記と詩篇■

 

*私と聖書
*


鍋谷 堯爾

(なべたにぎょうじ)

「l930年生まれ、神戸市、板宿小学校、神戸二中、慶応義塾大学医学部入学、色弱のため経済学部に転部、同時に慶應義塾大学、外国語学校フランス語科卒業、在学中、結核を発病、三田市兵庫療養所に4年あまり療養、退院後、神戸ルーテル聖書学院に入学、1956年神戸ルーテル神学校開校準備のため、主事として働きはじめ、以後50年同校に勤務、現在に至る。同時に、慶應義塾大学文学部に復学、「シェイクスピア、ハムレット」の論文(厨川教授指導)によってBAを受ける。1962年神戸ルーテル神学校卒業、1967-8年、アメリカ、フィラデルフィアのウェストミンスター神学校留学(M.Th.)、1970-72年、セントルイス、コンコーデイア神学校で博士号を受ける。現在、神戸ルーテル神学校教授のほかに、三宮教会牧師、神戸国際大学名誉教授、淀川キリスト病院評議員、日本ホスピス緩和ケア研究振興財団常務理事、神戸バイブルハウス理事などを勤める。」

*人生のふしめ
*

もう9年も前のことです。「少年H」という小説が講談社から出版され、200万部が売れるというベスト・セラーになりました。この小説を書いた妹尾河童君は、神戸二中で私と机を並べた同級生です。大東亜戦争の最中に中学に入り、勉強よりも、軍事教練、校舎を改造した三菱の軍需工場でのモーターづくり、校庭のさつまいも畑への水やりで毎日は過ぎてゆきました。3年生になると、毎日、防空演習が始まりました。3月17日と6月5日の空襲で神戸の町は灰塵に帰しました。3月17日午前1時に始まった空襲は神戸の町の3分の2を焼き尽くしました。「Hは、自分が住んでいた街が、こんな風に見渡せるようになると、とても狭くてちっぽけだったことに気づいて戸惑った。昨日までは、もっともっと広い街だと思い込んでいたからだ。」

「少年H]が発売された日が、(1997年の)1月17日であるのは、11年前の阪神大震災によって神戸の街が焼けてゆく姿、とくに長田から鷹取にかけての状況があまりにもよく似ているにで、亡くなった6000人への鎮魂の思いが込められているのかも知れません。
長い人生にもいくつかの「ふしめ」があります。神戸の人にとっては、戦時中の空襲、そして、阪神大震災が「ふしめ」です。そしてそれは、人びとの思いの深いところに沈着し、新しい文化を生み出していくでしょう。

私には、それに加えてもう一つの思い出があります。それは、「病」であり、「死の病」であり、そこでの「聖書との出会い」です。

*聖書との出会い
*

私が聖書と初めて出会ったのは、今から55年前、三田にある結核サナトリウムに入院中のことです。その当時、日本では、結核の死亡率が一位でした。療養所に入れば、三人にひとりは、裏門から出ると言われた時代でした。私の病気は、右肺の下葉にある卵大の病巣で、気胸とか気腹とかでは治りにくい位置にあり、まだ、ストレプトマイシンとかヒドラジッドなどの新薬はなく、「大気、安静、栄養療法」が唯一の治療法でした。当時は、まだ食料は十分でなかったので、松林の中に建てられた粗末な病室で、昼も夜も、夏も冬も、開け放たれた開放病棟でただじっと寝ているだけの毎日でした。6人部屋でしたが、上を向いて、臥せっているだけで隣のベッドの人とずっと話をしているわけにはゆかず、天井の節目を数えながら、いろいろものごとを考えていました。

最初は、学校のこと、そして、家族のことが気にかかっていました。前の年、母は、42歳の若さで、5人の子どもを残して世を去りました。妹たちは、5歳と8歳でした。開けっ放しの病室に「絶対安静」を命じられて寝ているだけの毎日でしたが、そのうちに、悪くなった患者が個室に移り、数ヶ月後に喀血とか、肺炎で亡くなっていくのを.見ると、自分も明日はそのようになるのではないかという不安が襲ってくるようになりました。

ある時、一人の男性が、「バイブル・クラスにはいりませんか?」と誘いに来ました。その当時、600人の患者のうちで、実に100人の人がバイブル・クラスの会員でした。入会するとすぐ、彼は一冊の聖書をもってきました。それは、アメリカで印刷された贈呈用の新約聖書でした。私は貪るように聖書を読み始めました。全部を読みとおすのに何日もかからなかったと思います。普通の本と違って、文章はそれほど難しくありませんでしたが、何か納得しがたい感じがありました。もう一度読んで見ました。また、もう一度、読んでみました。マタイ伝、マルコ伝、ルカ伝、ヨハネ伝と読み進めるうちにひとつの「ことば」にひっかかりました。

イエス言いたまふ「我はよみがえりなり、いのちなり、我を信ずる者は、死ぬとも生きん。おおよそ生きて我を信ずる者は、とこしえに死なざるべし。汝、これを信ずるか」。(ヨハネ11章25−26)。当時は、まだ「口語訳聖書」はなく、私が生まれる13年前に出版された大正訳と呼ばれた文語訳聖書でした。

「口語訳聖書」が出版されたのは、私が洗礼を受けてから3年後のl955年でした。それによると、
「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていてわたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」になっています。

その後、1970年には、新改訳聖書、l987年には、新共同訳が出版されました。
新改訳:わたしは、よみがえりえです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。
新共同訳:わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。

それぞれの翻訳は、少しずつ違っていますが、わたしには、いまも文語訳の聖書訳が胸に焼きついています。「我はよみがえりなり、いのちなり。我を信ずる者は、死ぬとも生きん。おおよそ生きて我を信ずる者は、とこしえに死なざるべし。汝これを信じるか。」このことばを信じて、54年前、l952年のイースターに洗礼を受けました。

*いやしのことば
*

洗礼を受けて翌年、当時始まったばかりの肺葉摘出手術を受けた私は、完全に病巣を摘出することができました。また、ストレプトマイシンや、パスや、ヒドラジッドなどの新薬の出現により、結核は不治の病ではなくなりました。1955年、完全にいやされた私は、大学に復学しましたが、とりあえず聖書の勉強をしようと神戸ルーテル聖書学院に入学しました。
そのとき与えられた聖書のことばは、イザヤ書53章5節でした。

イエスは、そむきの罪のために刺し通され
私のとがのために砕かれた。
イエスへの懲らしめが私に平安をもたらし、
イエスの打ち傷によって、私はいやされた。

聖書では、イエスは「彼」であり、私は「私たち」ですが、洗礼をうけて、十字架の罪の赦しの福音にあずかり、3年後、完全ないやしを経験した私には、目には見えないけれども、今日も生きておられるイエス・キリストの恵みのわざによるのであり、それが、イザヤ53章5節に一言で表現されているように思えたのです。それ以来、イザヤ書は聖書の中でも特別の意味をもつものとなり、何時の間にか生涯のライフワークになりました。そして、できれば原語のヘブル語で読んでみたいという希望をもつようになり、青谷の神戸ルーテル神学校から、週に二回、六甲にある、改革派神学校まで、二年間、聴講生として榊原先生に教えていただきました。ヘブル語から翻訳された日本語聖書はよく訳されています。しかし、原語のヘブル語で読むと、日本語では味わえない意味を知ることが出来ます。

たとえば、53章5節には、「そむきの罪」と「とが」という用語が出てきます。53章では、「そむく」という言葉が4回、「とが」が2回でてきます。それ以外にヘブル語では、的を外すという意味の「罪」ということばがあります。人間は、まず神にそむいて罪を犯しました。その結果、人間同士の間でも、憎しみあい、傷つけ合うようになりました。「とが」のもともとの意味は、「ゆがむ」ということです。心が「ゆがみ」、言葉も「裏表」をもち、「行動」もゆがみます。神との関係が破れ、人間同士のきずなが絶たれたところでは、国も、社会も、家庭も、すべては、ゆがみ、ひずみ、崩壊します。

イザヤ53章は「受難のしもべ」の歌は、ひとびとの罪ととがを背負って身代わりの死を遂げるメシヤ像を描き出しています。そのメシヤ像はイエスが来られたとき成就しました。イエスは、私のために苦しみを受け、命まで捨ててくださった。それによって、自分はいやされ、生きる目標を与えられたのだ。

*神学のまなび
*

神戸ルーテル聖書学院を卒業する前に、神戸ルーテル神学校の開校準備が始まり、私は通訳兼主事として働くようになりました。その働きをしながら、大学を通信教育で終え、ルーテル神学校の勉強をし、改革派神学校でヘブル語を学びました。こうして、いつの間にか、旧約聖書を専門に学び、教える生涯が拡がってゆきました。

1967年〜68年にかけて、私はアメリカに留学しました。場所はフィラデルフィア、学校はウェストミンスター神学校と言います。そこで、私は、エチオピア語、アラム語、ヘブル語を用いて、イザヤ書の研究を続けました。学校は世界的に有名でしたから、日本、韓国、中国インドなどからも学生が留学していました。朝、韓国の学生に会って、「アンニョン・ハシムニカ」と声をかけると、彼らの心が開くのがよく判ります。「ナシガ・チョウスミダ」というともっと、心は開けます。中国からの学生には、「ニ・ハオ・マー」といい、「テンチ・ハオ」と言えば、彼らの心が開くのがわかります。

そのとき、私にはひとつの発想がうかびました。聖書は、たんなる書物ではなく、神が聖書の言葉をとうして、語りかけるのではないか。神は、日常生活の中に埋没している私に、「アンニヨン・ハシムニカ」と語りかけ、神のみ前に呼び出されるのです。羊を飼って、もう人生の終わりにさしかかっていたモーセに「モーセよ、モーセよ」と呼びかけられたお方です。カルデヤのウルで都市生活の中に埋没していた75歳のアブラハムに、「アブラハムよ、アブラハムよ」と呼びかけられたお方です。

このお方が、病に伏して、自分も死ぬかもしれないと恐れていた私に、「汝、我を信じるか」と聖書を通して呼びかけられたのです。

1970年〜72年、ふたたび、セントルイス、コンコーデイア神学校で学んだ私が日本に帰ってくると、神学校の働きと共に、聖書の翻訳の仕事が待っていました。それは、新共同訳聖書の旧約聖書、とくに小預言書を訳する仕事でした。第二ヴァチカン会議の結果、ローマ・カトリック教会とプロテスタント教会は協力して聖書を翻訳することになりました。これは、ルターやカルヴァンの時代には考えられなかったことです。日本でもl972年から正式に約40人の翻訳者が翻訳の作業をはじめました。翻訳者の3分の2がプロテスタント、3分の1がカトリックでした。15年かかって1987年に翻訳は完成、出版されました。いま、日本で一番よく用いられているのは、新共同訳聖書です。

一方私は、1974年〜l977年にかけて出版された、いのちのことば社の新聖書注解、旧訳4巻のなかで、ヨシュア、士師記、預言者緒論、イザヤ書の執筆をしましたが、それは、新改訳聖書に基づいています。また、今執筆中の「詩編を味わう」は新改訳聖書第三版に基づいています。

いずれにしても、2000年前の死海文書のヘブル語テキストをはじめ、1000年前のレニングラード写本からのヘブル語を参照しながら、日本の読者にわかりやすい日本語訳を提供するのが、私たち翻訳者の役割です。

*聖書はだれのもの
*

いま、世界では、毎年、約4億の聖書、又は、聖書の分冊が配布されています。日本でも毎年約200万の聖書または、聖書の分冊が配布されています。聖書は隠れたベスト・セラーです。
ルターは、l521年、ヴァルトブルグ城に隠れていたときに、12週間かかって新約聖書を翻訳しました。それから12年を費やして旧約聖書を翻訳し、1534年に、新旧約聖書を出版しました。それは、だれでも、聖書のメッセージにふれることができるためです。ルターやカルヴァンの考えは、聖書は、一部の学者や牧師のものではなく、神の愛のメッセージを凡ての人に伝達するための器なのです。難しい所もありますが、中心の神の愛のメッセージは誰にも判るものです。新共同訳であれ、新改訳であれ、翻訳者は、日本語で最善の意味が伝わるように心血を注いで翻訳しています。

それを何回も読むうちに、神の愛は、読んでいる人の心の内にしみとうってくるのです。
最近、「たった一度の人生だから」星野富弘さんと日野原重明さんの対談集よく売れています。
10月1日に発売されてからもう5版が出版されています。10月4日に95歳になってまだまだ元気な日野原先生、26歳の時に半身不随になって、いま全国の人びとに,詩と絵をとうして生きる勇気と力を与え続けている星野さん、――――彼らを支え、ヴィジョンを与えているのは聖書です。そして、いま聖書は、日野原さんや星野さんだけでなく、すべてのひとの前におかれているのです。

昨年、県庁のそばに、阪神大震災で倒れた神戸栄光教会が再建されました。1925年(大正14年)に建てられた当時関西一の教会は、80年ぶりにそのままの姿に再建されました。この建物を建てたのは、日野原さんの父、日野原善輔牧師です。当時、14歳の日野原さんは、栄光教会から、現在の王寺動物園の所にあった関西学院まで歩いて通いました。善輔牧師の説教に「わが往くところは父の家」というエッセイがあります。

「主イエスは、その最後の日が目前に迫った時、茫然自失の弟子たちにむかって、教え慰められた。嵐に揺れ動く小舟のごとき弟子たちでむかって、"汝ら心を騒がすな。神を信頼せよ。しかり、私を信頼せよ"と励まされた。

死は魂のふるさとへ帰る里帰りである。イエスは言われた、"私の父の家には住まいがたくさんある"(ヨハネ14章2)。天には住宅難はない。いずくへゆくかを知らずして往く死こそ哀れである。しかし、私たちは往くべき所を知っている。イエスは十字架の死を"必然の終わり"として知っておられた。それは、"イエスの父の栄光の現れる日であり、イエス自身が栄光を受けられる日"であった。この信仰を持って、人びとはその歩むべき道、導かれるべき真理、生きるべきいのちを見いだすのである」。

善輔牧師は1955年(昭和33)アメリカ、リッチモンド市のアズベリー神学校の同窓会でスピーチをした後、肺炎で倒れ、詩篇23篇を読んでもらいながら、平和のほほえみを浮かべながら召されていきました。81歳の生涯でした。

また、私の好きな星野富弘さんの詩があります。

こころの中に
ポッカリ空いた
   部屋がある
 そこで私は
言葉にも 形にも
   ならないものたちと
静かに向き合う

詩の行間のように
 日本語の余白の
      ように
なんにもないままに
 いつまでも残しておきたい
  大切な私の部屋 

   星野富弘詩画集絵はがき15,「心の部屋」

この詩は、聖書を読むときに文字の向こうにある、見えない真理を読む、いや、文字の向こうから語りかける方の声を聞くとき、はじめて聖書のことばは、「生きた神のことば」になるという重要な真理を私に示唆してくれています。

*第二部 聖書に聞く
*

1972年からl987年の新共同訳聖書の完成、出版まで、私は翻訳者として名をつらねました。l972年に翻訳者として参加したときに、その翻訳の基本方針は「大衆訳」ということでした。具体的には中学三年ぐらいの普通の人が判るようにということでした。それは、ユージン・ナイダの提唱した、ダイナミック・エクイヴァランスの翻訳理論に基づいています。ナイダの翻訳理論は読む人びとの立場に重点をおいた翻訳ということができます。たとえば、コロサイ3章12の「深い同情心」の原文をそのまま「慈悲のはらわた」と訳しても通じないでしょう。(パウロはここで、ヘブル語の慣用句を考えながら、ギリシャ語を用いています)

一語一語を訳すのでなく、内容を訳すべき言語に最も自然な文に書き換えるのです。文脈を逐語的対応に優先するのです。そして、読んでもらいたい人が理解できる言葉に訳し変えるのです。(翻訳―理論と実践、ナイダ、テイバ、ブラネン著、研究社、l973年)。新共同訳の翻訳作業はしばらくして行き詰まりました。それは、委員会制度で、各委員の意見を聞いたために、あまりにもその作業が煩瑣化し、5,6人の小委員会で三日間かけても一語の翻訳もすすまないことがありました。第二は、カトリック教会とプロテスタント教会で従来から用いられてきた人名の発音について、なかなか調整がすすまなかったことです。

新共同訳聖書はその「序文」において、次のように表現しています「はたして完全な翻訳がありうるかと問われたならば、その答えは、否、でだりましょう。ましてや、委員たちが直面したのは神の言葉である聖書であります。こうして翻訳は思わぬ時を費やし、刊行の期日は幾度も変更され、今日に至った次第です」。

「今回の翻訳をことさら"新共同訳"としたのには、次の三つの理由があります。

第一は、新約聖書の部分が、1978年に出版した、"新約聖書 共同訳"に対し、全く新しい翻訳といえるほどに大幅改訂の加えられたものになったということであります。第二は、旧・新約を通ずるすべての人名・地名の日本語表記に、新しい方式がとられたことであります。、、、、、第三に、原文と訳文との間のかかわり方や、日本語の文体など翻訳上の方針を、発足当初に志向したところから、教会の典礼や礼拝にも用いられるのにふさわしものとする方向へと改め、その点にそって翻訳が行われた点でも、新しい共同訳聖書となったと考えています」。

これにたいして、新改訳聖書は第三版においてその立場をはっきりと表明しました。「新改訳第三版は、これまで聖書翻訳で用いられてきた"ダイナミック・イクウイヴァレンス"や"ファンクショナル・イクイヴァレンス"と反対に"トランスペアレント(透けて見える)"翻訳理論を採用することを明確に打ち出しました。原文の形や言い回しを残した訳、時にはとっさに意味をつかめない、ぎごちのない訳であっても、そのまま原文に近く訳する方針です。そして、わかりにくいと思える表現や原意は、言い換えによってではなく、聖書全体を繰り返し読んで慣れることと、また、説教者や注解者が解き明かすことによって、理解を深めるべきであると言っています」(詩編を味わう、第二巻、19ページ、参照、「聖書翻訳を考える」いのちのことば社、123ページ)。

旧約聖書が書かれている言語はヘブル語かアラム語ですが、これは、英語とも日本語とも全く違う言語です。(ワイングリン、ヘブル語文法、参照)。特に動詞の時制が独特です。ヘブル語には、過去、現在、未来の区別はなく、完了、未完了のアスペクトしかありません。

最近の旧約研究において明らかにされてきたことは、旧約聖書の詩文体におけるパラレリズム(平行法)の重要性です。それは単なる修辞的技巧の問題にとどまらず、旧約思想の本質を提示するために不可欠な文体であることが明らかになってきました。このことを初めて発見したのはロバート・ロウス監督でした。それまで2000年以上も、このパラレリズムの重要性に気づいていた者はいませんでした。1753年、ロウス監督は「ヘブル語の詩についての講義」を出版し、パラレリズムによって音声と文体が比較的緩やかに結びついてヘブル語独特の思想が表現されていると主張しました。パラレリズムは大きく分けて三つに分類されます。

(l)同義型パラレリズム
  まことに、その人は主のおしえを喜びとし、
  昼も夜もそのおしえを口ずさむ。(詩編1篇2)

(2)半意型パラレリズム
  まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。
  しかし、悪者の道は滅びうせる。(詩編1篇6)

(3)合成型パラレリズム

  第二行目が第一行目の思想を反復するのでもなく、対照的に述べるのでもなく、第一行目の思想を受け継ぎ、それを補足したり、修正したりして、合成する型。
  悪者のはかりごとに歩まず、
  罪人の道に立たず
  あざける者の座に着かなかった(詩篇1編)。

  パラレリズムによって、聖書の読み方は、深められ、広がり、いままで考えられなかった意味を現わします。

  (l)ゆっくり味わう。
テキストに時間をかけ、耳を傾ける異、細部に注目し、多様な広がりの中で、意味の高さ、深さ、広さを考えてゆきます。

  (2)想像力を働かせる。

  (3)感情移入により新しい意味を知る。

  (4)全体的に聞く。

  (5)祈りながら味わう。

  (6)テキストが全身にひびくまで味わう。
     みことばの 声で味わう めぐみかな。

また、近年の研究において、「間」の重要性が認識されてきました。
例、創世記22章4節、「三日目に、アブラハムが目を上げると」。
イザヤ6章1,「ウジヤ王が死んだ年に、私は主を見た」


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